コラム

森謙吾プロフィール

森謙吾

森謙吾(もりけんご)1968年生まれ
ココログミ株式会社代表

ここでは、恥ずかしながら自身のプロフィールをご紹介します。コーチというその特性上、その人の過去はリソースの宝庫だと考えています。私の場合は、あまりに自慢できない過去ではありますが、何かしらの参考になればと思っています。

目次

リソースの源を育てた幼少時代

大阪の三国に大工の父親と看護師の母親の長男として誕生。

厳しく、理不尽な父親には、認められたいという気持ちを通り越し、見返したいという強い復讐心を抱き、中学生の頃には殺意に近い感情までわいていました。

そんな父親を見返す・黙らせる・復讐するためには、日頃父親が蔑んでいるサラリーマンになって、いくら昇進しようと叶わないので、社長になるしかないと思い、それを目指そうと強く決断しました。小学校の3年生の頃でした。

今まで経験したことのない存在承認を得た中学時代

私は小学校6年生までいじめられていました。当然、そのことは親には口が裂けても言えませんでした。

しかし、中学に進学し、いわゆる不良の友達ができたとき、小学校まで私をいじめていた子たちの、私を見る目が変わりました。私自身は何も変わっていないのにです。周りの環境や雰囲気だけで、人の見る目は変わることを初めて知った体験でした。

大きな「苦手」が誕生した高校時代

どうすれば社長になれるのか、何をすれば良いのか、皆目見当がついていなかった私は、担任の先生との会話でとある決断をします。

「社長になるために苦手をなくしていかなきゃダメだ。苦手なことばかりやっていこう。」と。

その後の人生での折々でてくる岐路や選択の場面で、自分が苦手だ、嫌だと思う方を選ぶと決めたのでした。

その後入学した高校のとある事件で、「人前で当てられる度に手が震え、声が震え、喉が詰まるように」なってしまいます。

社長になるために苦手を潰していこうとしている私に、大きな苦手が誕生してしまったわけです。この苦手は社長のみならず、ビジネスパーソンにとっては大きな痛手でした。

愛情を一手に受けた大学1回生時代

大学のクラスはみんな仲良く、極めて団結していました。そんな中、私は学園祭スタッフに勧誘されます。

学祭スタッフになるということは、私が苦手とする、未知の大人数のコミュニティーに属するということです。しかし、苦手を選択すると決めている私は、決断するに時間はかかりませんでした。

しかし、ここで私は今までに体験のしたことのない存在承認を受けることになります。同級の女子はたくさんいたのですが、そもそも外大は女子が多いので男子は何かと重宝され、ちやほやされるのです。さらに20人くらいいたと思う学祭スタッフの先輩方からも本当に可愛がられ、愛情を一手にうけていました。

みなさん仲が良く、仕事に対しては目的意識が完全に一致していて、全員がエネルギー高く、かつクオリティー高く仕事を遂行していく。当時は当たり前だと思っていましたが、今思えば極めて稀有なチーム力を持った組織だったと思います。

自分の苦手に屈し逃げてしまった、大学2回生時代

2回生時、学際の前夜祭の委員長を任命された私は、前夜祭当日に「イベントの優勝者にステージ上で表彰状を授与して欲しい」とお願いされます。

苦手を選択すると決めている私には迷う余地はないですし、断ろうにも、誰もが納得するその正当な理由がどこにもありません。私は承諾しましたが、人前で、しかも文章を読むという行為にかなりの恐怖を感じ、すでに手が震えだしていました。

お昼一番に行われた表彰状授与で、表彰状を読み始めた瞬間に手が再び震えだしました。それはステージ下の観客にもすぐわかるもので、それに焦る私の声も同じように震えていました。視界に入る横の女子放送部員が笑いをこらえているのがすぐにわかりました。恐れと恥ずかしさで消えてしまいたいと思った経験でした。

この出来事もあり、私はこの2回生で学祭スタッフを辞めたのです。自分の苦手に屈し、逃げた出来事でした。

誰かのためなら乗り越えられる可能性があることに気がついた大学4回生時代

4回生となり、私は卒業スタッフの総合委員長となります。

卒業スタッフの総合委員長には様々な役割がありますが、その中でも最後の大役は謝恩会での閉会謝辞スピーチでした。

今までと同じように恐怖を感じていましたが、謝恩会が始まり、全スタッフがタイムテーブルに忠実に自身のタスクをエネルギー高く遂行していく様子、決して楽しいだけでなく、一緒に苦しんだ仲間の真剣な様を見て、あれほど恐れていたスピーチを「早くやりたい」「みんなのためにもキッチリ締めてみせる」の想いが湧いてきました。

そして、600名を前にしたスピーチは、結果恐れどころか楽しいと感じるものだったのです。このとき、自分のためでなく、誰かのためなら乗り越えられる可能性があるのかも…ということを感じた場面でした。

社会人1年目、下村さんとの出会い

大学4回生のとき、誰もが恐れるバスケットボールの元選手であったNさんという職員に「広告代理店の営業だけは絶対にやめとけ!鬼のようにしんどいぞ!」と言われたことで、私は広告代理店の新規営業マンになることを決意します。

無事に、日本ブレーンセンターというリクルート系の求人広告代理店に入社し、研修を終え、新卒採用事業部に配属となります。ここで、後の私の人生での大きな指針であり恩師であり、日本でのコーチングのパイオニアである下村裕篤さん(https://shimomura-hiroatsu.com/)と出会います。彼はこの部署の事業部長でした。

最初の仕事であった、電話でのアポイント取り(いわゆるテレマ営業)で、私はなかなかアポイントを取ることが出来ません。

結局蓋を開けてみれば、29人の同期の中で制作部署でのデザイナー志望の女性2人と私の3人がまだ受注できていない状況でした。つまり営業マンでは私が最後だったのです。

そんな苦しい営業のスタートを切った私ですが、「自己成長」というモチベーションは下がり切ることなく続きました。

人生の中で一番努力・研鑽した 営業マン時代

営業は、自分の苦手を潰すためだけでなく、起業した後に必要なスキルだと思っていたので、そのコミットはとても高いものでした。

営業の書籍はじめ、心理学の本も読み、各自動車ディーラーや旅行代理店、不動産屋などあらゆる営業マンのいるところに行って営業をかけられ、時には街のキャッチセールスに自らかかり、いろんな営業に触れました。そして、学んだもの、インプットしたものは即、実際の現場で試しました。とにかく、四六時中頭の中は営業のことでいっぱいでした。

営業に関しては物心あらゆる面で良いと思うもの、ことを試してきました。今まで色々な経験をしてきましたが、いま振り返れば人生の中で一番努力、研鑽したのはこの“営業”でした。

営業スキルのステージが変わった、トップ営業マン時代

社内で、全社員個別の粗利ランキング表が掲示されるようになり、その当時先輩上司含めた200人近くいた営業マンの中で、私はトップになりました。しかし、通過点でしかない私はそれは大きな喜びではありませんでした。

さらなる高みを目指す中で私は、ひとつの答えを見つけます。それは、自分の心理に焦点を当てることでした。具体的には「相手が誰であれ、会った瞬間に心から大好きになること」でした。そして、私が心から大好きな気持ちを持つと、先方さんの反応がすぐに変わるのです。

今まで磨いてきた様々な手法も、もちろん役に立ちましたが、この「お客様に対しての自分の心理に焦点を当てること」によって、私の売り上げの結果にもさらに結びつきましたし、何よりクライアントのリピート率アップと、そのリピート単価が上がっていきました。

営業スキルが今までの曲線での向上ではなく、ポンっとステージが変わった感覚でした。

予定の1年遅れの26歳で、会社設立

どんなビジネスモデルで会社を設立するか決めていなかった私は、革新的なビジネスをしている会社に入社し、そのノウハウを手にして起業することにしました。その会社は、実質は詐欺会社でしたが、詐欺になっている部分を正常化し、関係するみなさんが潤う仕組みにすれば、みんなが幸せになると信じていました。

そして資金を集め、有限会社の設立登記をし、これまで念願の会社設立にこぎつけたのでした。予定の1年遅れの26歳の時でした。この登記が完了した時点で、正直、私はゴールテープを切った感覚を持っていました。

数千万円の負債を抱えながら広告代理業をスタート

このビジネスモデルを成功させるためには、特約店さんの数が重要でした。広告を打ち、特約店さんを獲得する際に、一切の虚偽内容は絶対に載せないと決めていた私は、「設立したばかりの会社です。実績はまだありませんが、どこよりも誠意を持ってやっていきます」決意表明のようなチラシを打ちます。

結果は燦々たるもので、出費に対して加盟数は伸びず、銀行融資からその後、銀行以外のところからもお金を借り、負債は数千万円になっていました。しかし、「きっといつか大きく上向きになるはずだ」と、選択肢はほかにはないと思い込んでいる私は、特約店さんを募ることを止めませんでした。

その後、いよいよ来月の返済や諸々の支払いはまったく目処が立たず、用だてできるあてもなくなり、もうこれまでかと諦めに至りそうだった時に、別途ご依頼をいただいたパンフレットの作成料が振り込まれ助かることがありました。

「自分にはほかに選択肢がない」「このビジネス以外にできることはない」と思い込んでいた私に、このパンフレット作成業務は他の選択肢を与えてくれました。この一件から、特約店募集の広告掲載をやめ、本業として広告代理業をスタートさせるのです。

コーチングとの出会い、初めてのクライアント体験

広告代理業を始め、受注は年間1000万円を超えるものだったのですが、作業を外注していたこともあり、その利益では毎月の経費と返済はまかないきれませんでした。

デザインの外注費を抑えるため、自分でデザインを始めました。自分がデザインする分、当然粗利率は高くなったのですが、それ以上に作業にかかる時間が増え、仕事量が減り、苦しい状況には変わりがない状況でした。

しかし、私はまた、もうこれ以外選択肢はない、四面楚歌だと思い、その苦しい状況を続けること以外できませんでした。

そんなある日、下村さんから電話がありお会いしました。

「コーチングというものを始めようと思っている」「一緒にやらないか?」と言っていただき、とても嬉しかったのですが、私は自分の会社もあるし、社員もいるので遠慮しました。この時「僕もコーチングを始めたばかりやから、練習台としてクライアントになってくれないか?」と言っていただき、週1回の電話でのコーチングクライアント体験が始まりました。

その下村さんのコーチングは私にはすごく刺激的なものでした。今まで考えもしなかったことを口にし行動に移す自分に驚きながら、「コーチングってすごいなぁ!」とコーチングの素晴らしさを痛感していました。

これがコーチングとの出会いでした。

IPOを目指す企業でのさまざまな業務経験

とても懇意にしているデザイナーから、3年以内に上場を目指すITの事業部を強化するために、常勤の幹部として参加しないかというお声がけをいただきます。当然、私には自分の会社を手放す選択はまったくありませんが、諸々の結果、出向という形で参加することになります。

この時、セッション時間が取れないために、下村さんとのコーチングも終了しました。

株式公開を目指すこの会社での仕事は、ベンチャーキャピタルや銀行、そして経済産業省からの紹介などで上場企業、そして同じく上場を目指す会社などにITを使った革新的かつその企業オリジナルのビジネスモデルを都度考案し提案、そして受注するというもの。その単価はいずれも数千万円です。

在籍したのは2年足らずでしたが、IT、WEBに関する先進の情報と技術、IPOを目指す企業とその環境や取り巻く人々、今まで経験したことのない巨額の投資や、それに関わるやり取りを経験させてもらいました。

安定から、消費者金融にも借金を断られる状態に

再びデザイナーの日常に戻った私は、経験を活かしWEBの受注を増やします。ホームページ経由の依頼も多く、デザイン専門の出版社からデザイン書籍の出版をするまでに至りました。100冊を越える寄稿、執筆をし、そこからデザインの専門学校から講師依頼も来ました。しかし、その依頼は過去の克服できないままの苦手が理由でお断りしました。

WEBデザインでも発生するコンペティションも連戦連勝で、結果、お客様は大手企業も多く、その作成費用に加え、日々のメンテナンス費用も発生し、会社を興して以来、もっとも安定した経営状況でした。

まだ負債は1,500万円以上残っていたのですが、この時期に結婚もしました。

しかし、結婚した同時期からホームページ作成料相場の下落が始まり、瞬く間にうちのWEB売り上げは70%以上ダウン。毎月の借り入れに対する利息の返済は大変な状態となりました。

結婚間もない妻の貯蓄もすべてつぎ込み、それでも一向に借金は減りません。さらに借金しようにも消費者金融からも断られる状態にまでなっていました。

デザイナーをやめると決断した

妻からはもうデザイナーをやめるようにも進言されていましたが、しかし、それでも私は「もうこれしかない」とデザイナーを続けていました。

ある日、ホームページから依頼が入ります。大阪市内の公共交通機関の全駅に乗り換え案内の大型パネルをデザインして欲しいとの依頼で、デザイン料だけで1,200万円です。デザイン料のみでの1,000万円超えは初めてで、「この仕事で人生リセットできる!」と快諾しました。

3ヵ月かけてほぼ完成の状態にまでし、連絡をまっていると、仲介役の社長から「大変申し訳ないのですが、この話なくなってしまいました。」と伝えられました。希望に満ちた3ヵ月はただの時間と労力の無駄遣い以上に、心に大きなダメージを与えるものでした。

それから数ヶ月後、何も変わらない苦しい日々を送っていた私は、普段乗らない大阪の地下鉄に乗る機会がありました。何気にホームを歩いていると、大きな柱に見覚えのある大きなパネルを見つけました。

あの時になくなったと聞かされた、私がデザインしたあのパネルです。
あの仕事はなくなっていなかったのです。

私は怒りを通り越して、悲しく、自分が情けなくなり、しばらくその場で動けなくなりました。そして、その時にデザイナーをやめると決断しました。

人生そのものの限界を感じ始めた

デザイナーをやめると決め、経費削減のために小さなアパートに移り住みましたが、収入が増えるわけではありません。

そこで、私はアルバイトをすることを決め、求人を出しているコンビニなどに複数履歴書を送りました。しかし、どこからも何の連絡もありません。理由はすぐにわかりました。それは42歳という年齢です。

アルバイトの選択すら絶たれた私は、次に日雇いの工場労働に行くことにしました。これは断られることはありませんでしたが、工場に運ばれるマイクロバスの中で、無言で汚い服のおじさんたちと同じように座っている自分に、情けなさや悔しさなどの感情が何も湧いていない自分を、もうひとりの自分が見ていました。

ただ、「落ちるところまで落ちたな」とだけ思いました。

体力的にも厳しい日雇いの仕事は、週2回勤務が限界と感じると同時に、仕事だけでなく人生そのものの限界を感じ始めていました。1ヵ月ほど、休み休み日雇いに行きましたが、生活の苦しさになんら変化はありません。正確には、その苦しさすらだんだん感じなくなっているようでした。

合わせて、生きている価値もなければ、意味もないと思いだしてもいました。

下村さんのコーチングスクールを受講することに

もう、何もかも終わらせようか…そこまで考えていたころに、下村さんから連絡が入ったのです。「三宮に行く電車賃もない」と伝えたところ、明石まで来ていただくことになり、下村さんに聴かれるまま現状をお伝えしました。

下村さんは話を聞いてくださり、諦めずにいろんな可能性を探ってくれました。

その後、下村さんとの共通の知り合いの方から電話があり、毎週2日、月額10万円の仕事をお受けすることになりました。今思えば極めて薄謝ですが、その時は定期的に一定のお金が入ってくるありがたさと、下村さんのご好意に対してもお受けすることを決めました。

しかし、きっとこの仕事は長くは続かないだろうと感覚的に感じていたのもあり、このお金を将来のために使えないかと、ここに来てやっと将来に目を向けることができたのです。

思い返せば、私のこれまでの人生で岐路にあたるとき、大切な局面でいつも下村さんが現れる。下村さんの近くにいれば、何かが変われるんじゃないか、やり直せるんじゃないかと。

そこで、下村さんのコーチングスクールを受講することに決め、私はコーチングを学ぶのです。


この後、下村さんのコーチングスクールにて、自分を内観し、今までの自分を振りかえり、自分と向き合う時間をたくさん取ることになります。この期間については、あまりに多くの気づき、多くの変化があり、書ききれるものではありません。お会いしたときに、聴いていただければと思います。

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