コラム

人生そのものの限界を感じ始めた(森謙吾プロフィール16)

デザイナーをやめると決めたものの、毎月の返済や生活費などを賄える他の収入源が思いつきません。結果、経費を減らすために、その頃住んでいた兵庫県の西宮市から明石市の小さなアパートに移り住みました。

家賃は以前の半分以下になりましたが、収入が増えるわけではありません。

そこで、私はアルバイトをすることを決め、求人を出しているコンビニなどに複数履歴書を送りました。しかし、どこからも何の連絡もありません。理由はすぐにわかりました。それは42歳という年齢です。

これまで、頑としてデザイナーに固執していたのは、他に選択肢がないと思っていたからでした。

モノ心ついた頃から嫌なことばかりして、やっと社長となった今までの人生を捨て、苦渋の決断で出したアルバイトという選択は、私にとって人生を捨てることと同じでした。

しかし、その大きな決断すら相手方から無視、拒否されたということです。

結婚してすぐにWEB需要が減ってきてからの4年間、日に日に自信がなくなり、自己肯定感も下がりきるところまで下がり、人にも会いたくない、会えない状態になっていました。

夜逃げ同然での明石の地まで督促は追ってくる。
きっと精神的に病院に行くべき状態ながらも、社会保険料を長年滞納しているので、ずっと無保険状態です。何年も歯医者すら行けない。

夜間警備員やトイレの掃除をする高齢者を羨ましく見ている自分もいました。その頃は強盗なんかをする人間の気持ちもよくわかりましたし、お金になるのであれば犯罪を犯すこともすすんでしたい心理状態になっていました。

アルバイトの選択すら絶たれた私は、次に日雇いの工場労働に行くことにしました。これは断られることはありませんでした。

初日の朝、6:30に阪急今津駅付近の某ドラッグストア前に来るよう言われ、そこに行くと何人かの人が立っていました。言葉を選ばず言うと、すごく汚い服を着たおじさんたちが無言で立っているのです。

6:30に近づくにつれ、同じような風貌の人たちが増えていき、ほどなくして1台のマイクロバスが我々の眼の前に停まり、前方のドアが開きました。

そこに待っていた人たちは慣れた感じで次々にそのドアから乗り込んでいきます。私もその流れに従い、空いてる座席に座りました。

そして、工場に運ばれるマイクロバスの中で、無言でそのおじさんたちと同じように座っている自分に情けなさや悔しさなどの感情が何も湧いていない自分を、もうひとりの自分が見ていました。
ただ、「落ちるところまで落ちたな」とだけ思いました。

初めて行った日雇い工場は、ペットフード工場でした。工場に到着するなり作業着と作業帽を渡され、持ち場と作業内容を指示され、一日中同じ作業を何時間もするというものです。

一日働いて、日給は手取りで約6,500円。その給料は、三宮にある日雇いの仲介会社に取りに行くというもの。初日に、あまりのハードさに翌日体が動きませんでした。私の最終選択肢である日雇いは、2日連続はおろか、週2回勤務が限界と感じると同時に、仕事だけでなく人生そのものの限界を感じ始めていました。

1ヵ月ほど、休み休み日雇いに行きましたが、生活の苦しさに変化はありません。正確には、その苦しさすらだんだん感じなくなっているようでした。

合わせて、生きている価値もなければ、意味もないと思いだしてもいました。

もう、何もかも終わらせようかと。

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