デザイナーをやめると決断した(森謙吾プロフィール15)
しかし、それでも私は「自分にはこれ以外できることがない」とデザイナーを続けていました。
そんな中、ごく稀に過去の私を知る方からデザイン以外の依頼がありました。それは営業に関するものばかりでした。「うちの会社で営業マンを指導してほしい。」「うちの営業マンに同行して見本を見せてあげてほしい。」という類いのものでした。
社員としてきて欲しいというものはお断りしていましたが、それ以外のご依頼に対して、拘束時間で折り合いがつくものはお受けしました。これは、アテはないながらも、いつデザイン仕事が入ってきても動ける状態にしておかなければいけないと思ってのことでした。
その営業の仕事をお受けしている最中に、いつもお世話になっているデザインの出版社から、再び出版のお話がありました。続けていたデザインの寄稿と違い、出版はその作業に少なくとも2〜3ヵ月はかかりきりになります。
しかし、ちょうど営業のお仕事を引き受けたばかりで、スケジュールの確保ができそうになく、そのご依頼を丁重にお断りしました。そして、それ以来その出版社からのご連絡はだんだん減り、ついには、いつもの寄稿を含む、一切の執筆依頼がなくなりました。
営業関連の依頼も、決して日々の返済、支払いを賄えるギャランティーはなく、加えてたまに舞い込むデザイン仕事を請け負うことを続けていました。その頃のメンタルは将来のことを考える余裕もなく、今日をどう乗り切るかで精一杯でした。
そんなある日、うちのホームページからある会社からコンタクトがありました。
コンタクトしてこられたのは立ち上げ間もない広告代理店の若い社長さんです。
大阪市内の公共交通機関の全駅に乗り換え案内の大型パネルをデザインして欲しいとの依頼で、クライアントは大阪市でうちとの間に2社が入っているとのことですが、すべての駅ごとにオリジナルのものを作成するもので、デザイン料だけで1,200万円です。
過去に印刷費も含めてこれくらいの仕事をしたことはありましたが、デザイン料のみでの1,000万円超えは初めてでしたし、「この仕事で人生リセットできる!」と快諾しました。
早速、デザインの打ち合わせが始まり、ベースデザインとなる梅田駅のパネルデザインに取り掛かりました。初回ラフデザインが完成するまで1ヵ月くらいかかったと思います。
そのラフデザインを間を取り持つ会社がクライアントである大阪市に提示し、修正が入り、手直して再提示する。このやり取りを10回ほど繰り返し、デザイン開始からこれにかかりっきりで3ヵ月たったくらいの時でした。ほぼ修正もなくなり、完成間近の時に、現段階のデータが欲しいと連絡がありました。
なぜこの段階でデータがいるのか疑問でしたが、指示通りにデータを送り、それから半月後。
その若い社長から「大変申し訳ないのですが、この話なくなってしまいました。」と伝えられました。彼自身も大阪市の担当者に会えない状況で、自分に委託してきた会社からの一方的な通告だったとのこと。その若い社長も憔悴している様子で、どうしようもなかったことがその表情からもわかりました。
私の落ち込みは彼のそれ以上でした。しかし、彼を責めても状況は変わりません。
それ以来、彼に会うことも連絡することもなくなり、希望に満ちた3ヵ月はただの時間と労力の無駄遣い以上に心に大きな大きなダメージを与えるものでした。
「やっぱりデザイナーはやるもんじゃない」と心のどこかで思っていたものがさらに自覚するようになりました。しかし、これ以外できることがない、正確にはできることがないと思っている私はその考えを否定しようとしていました。
それから数ヶ月後、何も変わらない苦しい日々を送っていた私は、普段乗らない大阪の地下鉄に乗る機会がありました。何気にホームを歩いていると、大きな柱に見覚えのある巨大なパネルを見つけました。
あの時になくなったと聞かされた、私がデザインしたあのパネルです。
あの仕事はなくなっていなかったのです。
きっと、大阪市もデザイン料を支払っているはずです。
ただ、それがデザインをした私の手元には入ってこなかったのです。
私は怒りを通り越して、悲しく、自分が情けなくなり、しばらくその場で動けなくなりました。そして、その時にデザイナーをやめると決断しました。
落ち着きを少し取り戻したその数日後、過去に同様に、デザインが完成するも仕事がお蔵入りになった幾つかの案件を思い出していました。
その中の、お菓子のパッケージデザインをした案件の商品名をネットで検索してみると、私がデザインしたパッケージで、そのお菓子が販売されているのを見つけました。
この時の感情は無でした。

