コラム

数千万円の負債を抱えながら広告代理業をスタート(森謙吾プロフィール11)

事前に立てたストーリー通り、当時の国民生活金融公庫、いわゆる国金に融資の申請に行きました。

企画提案書は作るのが得意だったので、今後の収益性の内容はもちろん、見た目にも印象の良いものを作り、意気込んで申請面談に臨みました。もち得る営業スキルをフル活用してのプレゼンでしたが、結果は玉砕。「前例がないビジネスモデルはダメ。」というのがその不採択理由でした。不採択より、その理由に強い怒りをおぼえたのを記憶しています。

大阪市内にオフィスを構え、オフィス家具はほとんど中古で経費節約しながら、3人でスタートしました。スタート直後、友人は個人輸入代行の仕入れ発送ため、香港に行き、私と先の詐欺会社から引き抜いた事務の女性の二人は日本。

外国語大学時代の友人が何人か海外にいて、準備段階から協力してもらい、開業時には取り扱い商品を決め、その入手ルートも確保していました。

このビジネスモデルを稼働させるためには、広告を打ち、特約店さんを獲得することです。詐欺会社の募集実績から、費用対効果の高い媒体は5誌ほど絞り、それらを扱う広告代理店の役員とのパイプも作っていました。商品のチラシも数種完成しました。

そして、いざ広告デザインを作成するにあたり、「月収600万円!」はもちろん、一切の虚偽内容は絶対に載せないと決めていました。結果、立ち上げたばかりの私の考えたコピーは「設立したばかりの会社です。実績はまだありませんが、どこよりも誠意を持ってやっていきます!」という旨の、広告ではなく、決意表明のような内容でした。

さすがに、これには広告代理店のその役員からは「それじゃ効果が出ない」と強く反対されました。しかし、嘘は絶対にイヤだと、その内容の広告を5誌ほどうち続けました。「必ずわかってくれる人がいる。そこからジワジワ広がっていけばいいんだ」と。

当然結果は燦々たるものでした。

私は必ずどこかで上昇曲線になると信じ、毎月広告を打ち続けました。当然、友人と二人で持ち寄った資本金はどんどんなくなるので、銀行2行への融資依頼も同時に進めていました。

銀行融資は断られることなく、借りることができ、さらに特約店さん募集は続きます。起業1年半後くらいには特約店さんは210店になっていましたが、その出費に対して加盟数は伸びず、その後銀行以外のところからもお金を借り始め、負債は数千万円になっていました。

しかし、「このビジネス以外にできることはない」「きっといつか大きく上向きになるはずだ」と、選択肢はほかにはないと思い込んでいる私は、特約店さんを募ることを止めませんでした。

営業しかできないのに、それがあらゆる自信となって自分を信じきっている人間のすることは怖いものです。

そんな頃、前職の時にお世話になったクライアントの大変懇意にさせていただいていた人事部長からお電話があり、「うちのパンフレット作ってほしい」というご依頼をいただききました。

起業当初から、最初に勤めた会社の頃のお客様からは時々ご連絡があり、「うちのパンフレット作って欲しい」などの前職時代のままのご依頼はいくつかがあったのですが、それを受けることは前職の会社への背任行為だと、どれもずっとお断りしていたのです。

その時もお断りさせていただいたのですが「じゃあ、私の叔父の会社の営業案内パンフレットを作ってやって欲しい。これなら受けてくれるでしょ?」さらに「いい加減、私の顔を立ててよ。」と言われたのです。

ご依頼案件は前職のクライアント企業でなく、しかも採用と関係のない営業案内パンフレットであれば裏切りでないと、その時お受けしました。久しぶりに企業にパンフレット作成の取材に伺い、過去につき合いのあったデザイナーとコピーライター、そしてカメラマンと打ち合わせを重ね、印刷し納品したわけです。
この一連の過去によくやっていた仕事は懐かしく、そして楽しく感じました。

そして、また苦しい日常に戻り、いよいよ来月の返済や諸々の支払いはまったく目処が立たず、用だてできるアテもなくなり、もうこれまでかと諦めに至りそうだった時に、そのパンフレットの作成料が振り込まれ助かったのです。

きっと、私は無意識にもう今のビジネスじゃ無理だとわかっていながら、認めたくなかったのです。

それは、自分にほかに選択肢がないからと思っていたからであって、このパンフレット作成業務は私に選択肢を与えてくれました。

この件から、企業の採用に関すること以外の制作物を請け負うと決めたのです。

それと同時に特約店募集の広告掲載もやめました。既存の特約店さんへのフォローは続け、本業として広告代理業をスタートさせたのです。

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