リソースの源を育てた幼少時代(森謙吾プロフィール1)
大阪の三国に大工の父親と看護師の母親の長男として誕生。
父親は頑固一徹で大変厳しく、とても恐ろしい存在でした。
父親は14歳の時に鳥取から口減らしのため、丁稚奉公で大阪に出され、住み込みで大工の修行をしていました。父親も多感な時期からひとり知らない土地で頑張ってきたのだと思います。コンプレックスや反骨心、もしかすると独り家を出されたことで、何かに対しての復讐心に似たものを抱いていたのかもしれません。
そんな父親は本当によく働く人で、年間休日は盆の3日と正月の3日のみの6日だけで、朝の7時には現場で仕事を始め、大工仕事ができなくなる暗くなる時間までずっと一人棟梁として働いていました。
どの大工より大工の腕は良く、まじめで信頼されていました。仲間からは“仕事が綺麗”と言われる大工でした。
その仕事への取り組み方とは対象に、大変お酒が好きな父親で、帰宅後は毎晩かなりの量のお酒を飲み、夕食の食卓ではいつも何かに怒りを向けた発言をしていました。私もよく怒られていました。
特によく口にしていたのはサラリーマンを卑下する発言でした。お金の話、自分の収入とサラリーマンの収入を比較する発言も多かったです。私の長年持っていた、お金を汚いものだという価値観も、父親の影響だったと思います。
外でお酒を飲むとよく人と喧嘩をする父親でもありました。常に何かに対する怒りを持っていたのでしょう。常に見返したいという想いを抱き、その見返す方法が仕事だったのかもしれません。
私は父親から今まで褒められたことは一度もなく、父親の視界に私が入る度に、何かにつけていつも駄目だしされ、感情的に怒られてばかりでした。理不尽なものもたくさんありました。
お前はダメな奴だ、お前は何もできない奴だと、ずっと決めつけられていると感じていました。親の保護下にあること自体に、ダメだしをされていた感じもありました。
「喰わしてやってる!」も口癖のひとつでした。
私はそんな父親のことが嫌いでしたし、とにかく恐れ、萎縮していました。
父親が仕事から帰ってくるトラックの音が聞こえると部屋で息をひそめて、存在を消すことが日常でした。父親のいる一階に下りるのが怖くて、トイレを我慢することも日常でした。
次第に私は、そんな父親に認められたいという気持ちを通り越し、父親を見返したいという強い復讐心を抱きだし、それはどんどん大きくなっていきました。正直、中学生の頃には殺意に近い感情までわいていました。
そんな父親に養ってもらっている状況が嫌でたまりませんでした。
そんな父親を見返す・黙らせる・復讐するためには、日頃父親が蔑んでいるサラリーマンになって、いくら昇進しようと叶わないので、社長になるしかないと思い、それを目指そうと強く決断しました。小学校の3年生の頃でした。
社長になる強い決意をした私ではありましたが、性格は極めて内気で人見知りを通り越して、とにかく人を怖がる子供でした。
特に人の怒っている顔や無表情な顔に強い恐怖を持ち、大きな声や音にも萎縮する子供でした。これも父親の影響でしょう。
そんな性格なので、幼稚園、小学校と友達もほとんどおらず、いつも家にあった昆虫や魚の図鑑を持って、ひとり原っぱや河原に行って生き物を捕ったり、捕った虫や図鑑の写真をチラシの裏やノートに写し描いていました。
加えて、とにかく人の怖い顔を見たくない、みんな朗らかで優しくあって欲しいと思う気持ちが強く、人に席や道を譲るなどの、人に対する世間一般に言う「善行」をよくする子供でした。
それは『自分が優しいことをした人は気持ちが優しくなって、またその人が他の人に優しくして、世の中のみんなが優しい人になって欲しいと』思ってのものでした。正確には怖くない人、笑顔の人になって欲しいと思っていました。
この想いは、後の人生で私のリソースの源となるものでした。

